[和時計]
和時計とは江戸時代日本でつくられた時計をさすが、和時計がどう云う経路をたどって日本の不定時法に合った時計が作りだされたかは現在も不明である。
和時計のモデルとなった時計がすでに室町時代に長崎を経由して西洋時計が日本に上陸したとされているが、その時計類は現存していないので見ることも出来ないし又立証もされていない。
記録によれば、1551年(天文20年)ポルトガルの宣教師フランシスコ、ザビエルが周防の国(現在の山口県)の大内義隆に西洋時計を献上したとされ、文献(義隆記)に明記されおり、これが我が国における西洋時計伝来の最も古い物とされているが、現物が存在しないため、それ以前にもたぶん数多くの時計が伝来している可能性もあるといわれているが立証されていない。
現存する物としては、徳川家康に献上された西洋の機械時計が最も古い物とされ、それは1612年(慶長17年)メキシコの総督から贈られたゼンマイ式の置時計が静岡久能山東照宮に宝物として保存されている。
1581年スペイン、マドリッドで作られた置時計で作者はハンス、デ、エバロと云うスペイン国王のお抱え時計師の時計である。
では、和時計と称される時計がいつ製作されたのか、その文献記録として天保3年(1831)御三家尾張徳川家にて編纂された尾張誌の中に次のように記述されている。
「いにしへ漏刻の器にて時をはかりしが、近年自鳴鐘異国より献りし後、簡便の器なるが、其製法知る人なかりしを助左衛門はじめて修理し且新造して奉りしかば其功少なからず日本時計師の元祖ともいふべし」と書かれている。
徳川家康が朝鮮から献上された時計が壊れたので京都府中にお触れを出し、当時京都に住まいし津田助左衛門がその時計を修理すると同時に、これを手本に新しい時計を家康に製作献上した。
その功により慶長3年(1598)御時計師として召し抱えられたのち、尾張徳川家に80石10名持ちを与えられたとある。
津田助左衛門がこれにより日本時計の元祖であると尾張誌は伝えている。その後、助左衛門は尾州公の為に「おもり時計」を献上したとされているが、ここに記録されている「おもり時計」とあるからには重りを動力とした掛時計であったのではとされている。
尚、津田助左衛門が尾張徳川家の御時計師としてその後どれだけの時計をしたのか、そして西洋時計をモデルに不定時法の和時計を製造したのかについては不明であり解明されていない。
津田家は代々尾張徳川家の御時計師として明治まで十数代に渡って時計を製造した唯一の家系でもある。
しかし、天保年間に書かれた文献のみで和時計を全て解明するにはいささか疑問でもあり、また助左衛門が家康に献上製造したとされるコピー時計の存在も、なぜ消えたのかも不思議である。
現在までのところ、尾張誌に書かれた説を元に津田助左衛門が日本で最初に時計を製造したことは事実である。現在和時計という名称になっているこの時計、江戸時代にはそう呼ばれてはいなかったのだ。
当時は中国からの伝承として「自鳴鐘」と呼ばれその他、「土圭・斗景・斗鶏」など記録されているが、和時計とは呼ばれておらず昭和に入ってからの名称である。
現在の名称:和時計又は大名時計と呼ばれている時計は、初代津田助左衛門製作以後多くの時計師達により、日本各地で徳川家以外の大名家の求めにも従って数多くの時計が製造された。
「櫓時計・掛時計・台時計・尺時計・印籠時計・枕時計・掛算時計・灯前時計・釣鐘時計」など各種、大名や将軍家の求めに応じ時計師達は多くの和時計を製造した。
初期に製造された時計は一丁天符で、深鈴と呼ばれる鐘が大きく、立ちの深い鐘がついているのが普通。
時代が下がるにしたがって鐘は浅くなって行き天府も一丁から進歩して二丁天符となり、時間も季節に合わせやすく進化し機構も複雑になって行く。
和時計は世界的にも特殊な時計であって、不定時法に合わせて製造された独自の文字盤を持つ時計で、尺時計はその中でも特殊な形式を持っており、時計の文字盤は普通は円形であるが尺時計の文字盤は長方形の縦長である。
江戸時代の生活様式に合わせて特別に製造された時計であり、季節の変化に合わせて文字盤を変更する和時計は日本独自の時計である。
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